2018.10.10
世界平和 / 工藤シンク / 楽園
記事
これからの時代のライフスタイル・コミュニティを実践する日本屈指の教授陣が集結、連日アツい講義が展開されています。
僕も教授のひとりとして講義をさせてもらっています。テーマは〝 #人間は意識の高い野性であろう 〟
人生をかけて探求してきた(これからも続くであろう)このテーマの現状の集大成を、全12回のコラムとして連載させてもらっています(2018年12月の時点で5回をローンチ)
[固定概念]や[常識]をシレっと覆し新たな境地へといざなうその文脈は、生徒さんたちからも大好評をいただいています。
こちらに第1回のコラムを転載させていただきますので、興味を持たれたら是非NCUにご参加していただけたら。(入学はいつでも可能で、これまでの膨大な講義アーカイブを全て閲覧することができるようになります)
それでは工藤シンクによるコラム『#人間は意識の高い野性であう Vol.1』、お楽しみください!
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ども!
熊本にある次世代型コミュニティ〝三角エコビレッジ サイハテ〟発起人の工藤シンクです。
『生きているうちに〝世界平和〟を味わってみたい』
子供の頃からのそんな情熱のもと、サイハテ村を立ち上げ、様々な活動を並行してきました。
そんななか、みなさんと共有したいテーマはもはやこのひとつに集約されています。
〝人間は意識の高い野性であろう〟
(※〝あろう〟の部分は『だろう』という断定と『そうあろう』という提案、ふたつのニュアンスを含ませつつ)
これは僕の人生をかけて探求してきたテーマでもあり、それをみなさんと共有し、さらなる境地を見出せることを嬉しくおもいます。
さて、まずは僕のつくった〝エコビレッジ サイハテ〟のお話からしましょう。
サイハテ村は1万坪に30人が暮らすコミュニティーで、これからの時代のライフスタイル『衣食住×文化』を模索・実践していこうと2011年に開村しました。
テーマは『電気,ガス,水道,政治経済がストップしても笑っていられる楽園づくり』(『政治経済がストップ』まで視野に掲げているところがミソですね)
コミュニティーとしてはルールやリーダーという設定がなく、合言葉は『お好きにどうぞ』
住人たちそれぞれの〝やりたい〟の循環相乗効果により暮らしがまかなわれ、発展を続けるという運営方式・コミュニティデザインがされています。
『運営』を外すことで運営される共同体。
村長がいるわけでもなく、全員がフラット。発起人の僕がいてもいなくても村は全く問題ないわけです。
多くの人が「それでやっていけるの?」と驚きますが、事実サイハテは開村より7年目をむかえ、安定した暮らしと発展を続けています。
最近では『ホラクラシー型』『ティール型』などともよばれ、社会システムやビジネスシーンなどでも脚光を浴びている組織形態ともいえます。
既存のリーダー牽引によるトップダウン型(ヒエラルキー型)に限界がみえ、時代性にもそぐわなくなりましたので、これからはこのような並列で柔軟な組織形態が〝次世代型コミュニティ〟の主流になっていくことは間違いありません。
しかしながら従来の発想とは常識レベルで違うため、理解し難く、混乱する方も多くみられます。
現在 日本でも空前のコミュニティブームが到来していますが、その運営は難しく、懸念事項や失敗事例も多くみられます。
そんななかで僕らサイハテは開村から7年着実に発展を続け、ひとつの成功事例であるといえるでしょう。
「成功の秘訣は?」といえば、お伝え出来るポイントはたくさんあります。
コミュニティーデザインメソッドに加え、7年の実績・経験による智見を重ねると、むしろその秘訣はとてもシンプルです。
先ほどコミュニティーの運営は「難しい」と表現しましたが、それは多くの方が「一番シンプルなところをおろそかにしている」からだと感じています。
人間の本質的な部分…僕なりの言葉で表すならば、それが〝人間の野性〟です。
それをおろそかにはできません…僕らは〝人間〟ですから!
そもそも〝コミュニティ〟とは何か?といえば
『3人以上の人間が、世界観を共有する』
ということです。
地域社会はもとより、サイハテのような共同体、趣味クラブやスポーツチーム、もちろん会社や国家・宗教などもひとつのコミュニティといえます。現代においては[地域][距離]という垣根も取り払われ、インターネットコミュニティなども活発です。
そういった側面からみると[人類の活動=コミュニティ]であるといっても過言ではないわけです。
気鋭の活動家やビジネスマンたちだけでなく、主婦や学生たちもが社会・人生レベルの『幸せ』の答えを〝コミュニティ〟に見出そうとしている現状の本質は、そこにあるのでしょう。
僕らは〝人間〟であり、その繋がりが〝コミュニティー〟である。
ミクロとマクロの視点から[人間(個人)]とその集合体[人類(社会)]を紐解き、リデザインしていく視点は、この変革の時代にこそ必須となっていくとおもいます。(※僕はデザイナーでもあり〝デザイン〟を重要視していますが、それは『グラフィックデザイン』『コミュニティデザイン』などの狭義だけでなく〝意識や感情を導く手段〟全般のことをさします)
さて、本題にはいりましょう!
〝人間は意識の高い野性であろう〟
そもそも大前提として、人間もこの地球を生きる〝野性動物〟のひとつであるのは間違いありません。
こんな時代になってなお、人間はお腹が減ったら力がでず、毎日ウンコをし、睡眠が必要で、異性に対してムラムラしちゃう!という摂理に、僕は感動すら覚えます。
普通に野性動物です。
そういう意味では数万年前となんら変わらず、です。
………しかし、断固として人類は野性動物ではありえないのです!
いきなり大前提から覆しましたが…なぜなら、そもそも人類が創造した『野性』という言葉の〝意味〟自体が『人間的コントロールの範疇外』を定義するものだからです。
むしろ人間は『本来のありさま』と自分たちを切り放したときに、その言葉を創造したのですから。
辞書を引いてみましょう。
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[野性]
自然のままの本能的な性質。洗練されていない粗野な性質。
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(※[野生]という語句もありますが『動植物が自然に山野で育つこと』という定義なので、ここでは[野性]を扱います)
[野性]とは産まれもっての性質。
用法などをみていくと、暴力などは『野性的』と表現されています。
ところで僕ら人間はそもそも、洗練されていない、野蛮な生き物なのでしょうか?
ライオン、象、ウサギ、ナマケモノ…世界には様々な動物がいますが、その野性は気高く感じられるものもあり、争いをしない種もあります。
人間はどうなんでしょうか?
ライオンっぽい人、象っぽい人、ウサギっぽい人、ナマケモノっぽい人…まさに十人十色、様々なタイプの人間がいます。
僕は『人間ほど多様性に満ちた動物はいない』とおもいます。
野生動物たちは、雑味なく、本能のまま生きています。
『飛んで火に入る夏の虫』という言葉もありますが、虫たちは「光を目指す!」という本能のもと、火に飛び込み命を落とすほどそれに忠実です。
そうやってみると、人間ほど自分たちをコントロールできる動物はいません。本性にあらがえる生き物は。
僕はそこにこそ人間の真価を感じますし、そうさせる要素こそが〝意識〟とよばれるものだと考えています。
では、〝意識〟とは何なのでしょう?
また辞書を引いてみます。
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[意識]
起きている状態にあること(覚醒)。または自分の今ある状態や、周囲の状況などを認識できている状態のこと。
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「起きている」…寝ていないときが意識のある状態、それはそうですね。「覚醒」にはさらなる高次元のニュアンスも感じます。
「自分の状態、周囲の状況を認識できている」…そのような状態が〝意識〟ある状態というのは理解できますが、では『認識できている』とは?
またまた辞書を引いてみましょう。
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[認識]
物事をはっきりと見分け、判断すること。そういうふうにして物事を知る、心の働き。また、その知った事柄。
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「物事をはっきりと見分け、判断する」!!!
シレっといってのけてますが、これはなかなか深そうなお話ですね。
人間は物事を五感でキャッチし、頭脳で判断する生き物ですが…その感度も知識経験も千差万別ですから「はっきり」具合も「判断」も千差万別です。
視力の高低によっても視界の「はっきり」具合が違うのは当然ですし、絶対音感など特殊な感覚と判断力で音を「はっきり」見分ける人もいます。嗅覚の鋭い人、味覚に長けた人もいます。スポーツなども瞬間の「見分け」「判断」が重要となりますが、天性の才能がある人もいれば努力や練習によってそれを得る人もいます。
同じ物事に対してでも、大人や子供、ポジティブな人、ネガティブな人、知識・経験…それこそ国家レベルから家庭単位での文化・環境・常識の違いによって「判断」は大きく違うでしょう。
『コップ一杯の水をみてどうおもうか?』とはよく用いられる例えですが、それをみて「半分しかない」とおもう人もいれば「十分ある」と判断する人もいる、一気に飲み干す人もいれば、花に与える人もいる、「美しい」と感じて絵に描く人もいる……同じ人としても、その時々の状況で判断は変わっていきます。
まさに〝意識〟はその時々、人それぞれ…人間の個性・多様性そのものともいえそうです。
(※最近は脳だけでなく内臓なども思考・判断を促す大きな要素だと判明しましたし、「第六感」や「魂」なんてのも見過ごせませんが、、、ひとまずそれは置いておくとしても!)
[意識が高い][意識が低い]という表現もあります。
それを〝意識〟の定義に照らし合わせるならば『物事をはっきり見分け、判断できる』レベルの高低ということになりますね。逆に頭でっかちで押し付けがましい、それが鼻につく人たちは『意識高い系』などとよばれたりもしますが…
どちらにしても『物事をはっきり見分け、判断する』には、より高い感覚(センス)と、より広範囲な知識・経験がものをいいそうです。
ところで人間は本能のまま、無意識のまま、高い意識であることはありえないのでしょうか?
誰かに押し付けられないと、教育がなされないと、的確な状況判断や行動は導けない生き物なのでしょうか?
人間が意識の高い野性であれたら…
それがありえるとするなら、そんな人類社会こそが世界平和っぽいぞ!? とおもいませんか?
だからこそ僕は、このテーマを追求し続けているのです。
〝人間は意識の高い野性であろう〟
ここで僕が共感するアインシュタインの名言をふたつ並べます。
『我々の直面する重要な問題はその問題を作ったときと同じ考え(意識)のレベルで解決することはできない』
『常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう』
本当、そうおもうんですよね。
それを言っちゃあおしまいなんですけど、いっそ終わらせてもいいレベルでそうおもいます。
僕は世界30ヶ国以上を旅してきましたし、それこそ原住民・少数民族、アーティストやヒッピーのような自由主義者、主婦や学生たち、気鋭のビジネスマンや投資家まで様々な人たちと交流してきました。
国や歴史、環境や文化によっても価値観や常識が全く違うので、そのたびに自分の世界観の狭さに驚かされます。
ちなみに世界的にみたら日本はかなり特殊なメンタリティを持った国で、島国であるうえ侵略や混血がさほど進んでいないこともあり、世界的には『少数民族』といえるんですよね。
日本人の価値観や常識は、世界的にみたらものすごく特殊な個性を持っています。
そして同じ日本人でも、環境や世代によっても常識が全く違いますよね。
サイハテ村に21歳の住人がいました。
彼は自分の人生・ライフスタイルを考えたとき、ネットで〝エコビレッジ〟の存在を知り、それが熊本にあることを知りサイハテにやってきました。
共に暮らしつつ、僕は近頃の若者たちのスマートさに感動し、彼に「最近の若者は中学校同士の抗争とかないの?」と尋ねたんです。
そしたら彼はキョトンとして……「それはテーマは何なんですかね?」とこたえたんですね。
僕は衝撃を受けました、「あぁ、もう、世代が違うんだ」と。僕は今年43歳になりますが、その世代には『そこに山があるから登る』みたいなヤツらで溢れていました。他の勢力があるからツブす、目が合ったからケンカする!そんな時代…今では絶滅危惧種にすらなっている、ヤンキー全盛の時代ですね。
今やテーマがなければ争いもない世代…『もはや世界平和じゃないか!』と。(どちらにしても戦争は国民がテーマを共有することでおこるものですが)
確かにこの話を30歳代以上にすると、僕と同じで笑ったり驚いたりするんです。20歳代以下にすると大概は「そうですよね~、テーマはなんだったんですかね~」というような反応になります。
全然違うんです。
[ゆとり世代][さとり世代]などという表現もありますが、現在の子供たちは[つくし世代]とよばれているそうです。
それは『他者につくすことが喜びの世代』のことで、確かに今の子供たちをみているとその風潮を感じます。『つくし』という表現自体がすでに旧世代的ですが、ベースとして『他者の喜びが自分の喜び』でしかない常識感が確かにあるんです。
ダンスを踊るにせよ、僕の世代なんかは『俺を見ろ!』的な情熱に突き動かされていたりするものですが、今の子供たちは『みんなが喜ぶから』踊るんです。
『他者の喜びが自分の喜び』である世代がメインストリームになる少し先の未来は、くる。
平和ですね。
『最近の若者は…』とは時代の定例文句ですが、それは50年前も100年前も、千年前もいわれ続けてきたことでしょう。
同時に若者たちは『古い世代は』と嘆き、人類はそれを脈々と続けてきたわけです。
ということは、人類は意識レベル・常識レベルで少しづつ成長を続けているのではないか? とおもうのです。
日本でも二世代ほど前には、天皇は神で「お国のために!」と命を落としていったときがありました。
現代日本でおなじことは絶対に起こらないでしょう。
歴史は脈々と積み重ねられ、親たちの世界観は子供たちに伝わり、または反面教師ともなり、世代ごとに新しい常識が産まれ続け、アップデートされ続けてきた。
その変化を一気に加速させたのは、インターネットなどのテクノロジーの発展であることも間違いありません。
縄文時代とも、戦国時代とも、今の僕らは違うところにいるはずです。
何万年も積み重ねてきた人類の経験と成長…どちらにせよ僕らはこの瞬間にも、人類の叡智の集大成であり最先端を生きているのは間違いありません。
さて、そうやって客観的にみたときに、現代を生きる僕らの常識レベル・意識レベルはどのあたりにあるのでしょうか?
今の人類のほとんどは、『世界平和』をよしとする常識感を共有してみえます。
人を殺すのがいけないことは常識ですが、それは法律や宗教的な戒律でそう定められているからなのでしょうか?
それとももはや、そんなことは野性の僕らの常識でしかないのでしょうか?
それを証明することはとても難しいです。
世界にはルール・法律、倫理や一般常識があり、僕らは産まれた時からその中を生きているのですから。
ここであなたに、ひとつの質問を投げかけます。
『もしもこの瞬間、世界からルールが無くなったらあなたはどうしますか?』
…この瞬間、世界から国境も法律も無くなったとして、そのときあなたはどうなりますか?
それをじっくりシミュレーションしてみてください。
法律的な罪や罰もなくなり、何でもやりたい放題。お金は使えなくなるかもしれませんし、そもそもインフラやサービスを提供するために働く人などいなくなるかもしれません。野性の人間は水や食料がなければ生きていけませんし、『それがなくなれば死んでしまう』という恐れもあります。混乱する人々もいるかもしれませんし、それに巻き込まれる可能性も否めません。
特に都会ではそういった状況になりやすいかとおもいます。必要なインフラが経済活動により供給され、ご近所との繋がりも希薄ですから。
なんせ!
当たり前のことですが…この世界からルールがなくなっても地球は変わらず存在します。
むしろ〝国境〟も〝法律〟も人間がつくりだした『集団幻想』という意味では、最初からそんなものは『無い』わけですから。
そう、この瞬間、世界からルールが無くなっても現実は何も変わらないはずなんです。
人間…というより〝人間の意識〟以外は、何も変わらないはずなんです!
日本国憲法には、全ての国民の『健康で文化的な最低限度の生活』を営む権利が掲げられていますが…それこそ基本中の基本! 本当にありがたいガイドラインです。
では、もしも国や法律が保証してくれなくても衣食住が安定していたら…信頼できる仲間たちと共にあれたら…日々文化的な喜びに満ちていたら…どうでしょう?
・『衣食住×文化』
・ ルールやリーダーの設定なく、合言葉は『お好きにどうぞ』
・『電気,ガス,水道,政治経済がストップしても笑っていられる楽園づくり』
そう、僕はその可能性を模索・実践・証明したくて〝エコビレッジ サイハテ〟をつくったのです。
それでは次回より、〝#人間は意識の高い野性であろう〟というテーマをよりライトに深く…様々な側面から追求を進めていきます、
お楽しみに!
– – – (2018年 8/2 NCUにて公開) – – –